第21回読書会blue開催(したかった)レポート

令和2年4月12日(日曜日)開催予定の読書会はコロナウイルス感染予防のため中止となりました。

しかしせっかく課題本「脂肪の塊」を読了しているのに感じたことを共有できないのはもったいない…!

そこで参加予定の方に課題本「脂肪の塊」を読了して感じたこと・印象や思いなどを尋ね、ブログにまとめることにしました。

課題本「脂肪の塊」を読了した方もそうでない方も是非参考にしてください。

(匿名でのご紹介です。男性→、女性→で分けています。)

(注:ネタバレを含んでいます)

 

[全体を通して感じたこと]

主人公:ブール・ド・シェイフへの差別について、現在の社会や状況と比較して人間の陰謀、矛盾、エゴなどを感じたという内容が多くみられました。

 

・伯爵や県会議員、ブルジョアとその夫人の方々といった有産階級の人間が、娼婦に対して巡らした陰謀の構図は、まさしく”大人のいじめ”の世界として非常にわかりやすく描かれており、「目的は手段を正当化すること」は、現代の社会にも通じていると思われます。

 

・集団の中で集団が生き延びるために犠牲となった人が却ってそのために集団から追放されうというイヤな話ではあります。脂肪のかたまりというのは売春婦の揶揄でもありますが、その点の関しては余り関心はなく、現実社会でもこういった人身御供、矛盾はありそうだなと思いました。卑近な例が思い浮かぶのもイヤなものです…(中略)…ユゴーにしろモーパッサンにしろフランスを代表する文豪・文人というのは19世紀の帝政期以外に排出されておりますから、政治上の安定と文学が華やかであるということは正の相関にはないのでしょう。

 

・娼婦という職業はいつの時代もなくならない職業であり、病気や犯罪の危険性もあり、一度に多くのお金をもらえるものの、女性から軽蔑されることも多く、男性からは必要悪のような感じで肯定される方も多いのではないかと推測する。…(中略)…娼婦がなくならないものであるのもそうだが、差別もなくならないのも昔も今も同じである。…(中略)…「脂肪の塊」はあなたがこの場にいたらどのような行動を取りますか?と突き付けてくる。女性の連帯感が悪い意味で出ている。「モテる」「モテない」というのも女性のプライドを刺激するようでこれも究極「寝たいか」「寝たくないか」というところにいきつく。そう考えると選ばれない他の女性たちは面白くないワケで「p70:人妻には遠慮して手を出さないのです」という発言で女としての矜持を保っているようにも見える。差別について考えるのならブール・ド・シェイフが娼婦だと受け入れ、自分のなかでの差別感情を認めた上で、偽善的にならずに自然に食べ物を分けたり親切にできる、そういう人がいたら、本当に素晴らしいのではないかと思う。

 

・登場人物達がブール・ド・シェイフに二度も助けられたにもかかわらず危機を脱したとたんに掌を返した心理に一貫性を見いだせなかった。解説にもあったが、この辺りは貴族階級的な部分からくるものらしいが、それを差し引いてもあまりにも…と感じた。こう思えるのも自分が悪くない時代に生まれた証左であるのかなとも同時に思った。しかしながら、思案していくうちにそうでもないかもと思い直した。近年の特にSNS上では、いかにも高潔らしい考えをお持ちの方々が多いように見受けられる。彼ら彼女らは自身が安全地帯から槍を投げていることを忘れてしまっているのであると思う。解説には「戦争という大きな危機に際して」と書かれていたが、私にはむしろ危機を脱した人間、安全地帯にいる人間の「醜いエゴイズムや偽善や残酷さがあらわになるさま」を描いているように思われ、しかもそれは現代においても変わらないと感じた。そして自身もその醜い人間のひとりであるという自戒を常に持たなければとも思った。

 

・性風俗に従事する婦人が、周囲の人間達にうまいこと利用されている場面が何度かありました。その度に婦人が傷つけられていて、私も心が痛みました。私がこの本の登場人物達の行動、言動に不満を抱いた点は、①婦人を職業や身分によって差別している、②婦人に「利用された」という後悔の意を与えた、の二点です。

(①について)婦人は少し感情的な面はあるけれども、思いやりのある優しい女性です。…(中略)…同乗者の人達は婦人への明らかな差別が目立ちました。明らかに職業で差別しているようでした。そのような職業についていようと、大事なことはその人の人格をきちんど見つめて接することだと思います。

(②について)人間は自力では乗り越えられない困難を、他人に委託して解決してもらうという場面が、もちろん当たり前にあります。今回だと諸国の兵士に対して、婦人が身を売らなければ、宿を出発することができない、という場面がありました。…(中略)…女性が自らの魅力を武器にして、窮地を乗り越えてきた場面(例えば、クレオパトラの外交手段など)を引き合いに出し、婦人を騙すに近い形で、周囲の人達は婦人を誘導します。他人の助力を得るためには交渉が必要ですが、そのときに「そこからどこまでが悪質(詐欺や不平等な交渉)」であり、「どこからが人道的(お互いのメリットとなったり、公平な交渉となるもの)」であるのかを、きれいに分けることは難しいと思います。今回のは、ほとんど詐欺みたいな感じでした。しかし、どうせ騙すのならば、婦人が関係を持った翌朝に「よくやった」などという英雄を迎えるような、もてなしの対応をとってあげることがせめてもの彼女への救いになっただろうに、と私は感じました。

 

・高校での世界史は一年生止まりで、二年生以降は日本史を選んだ私はモーパッサンを知らずに生きてきました。今回の課題本は、訳者の高山鉄男氏の解説を先に読み、モーパッサン略年譜を読んでから本編を読みました。解説を読んで気になったのは、高山氏が『他人にたいする優しさを多少なりとも持ち合わせているのはブール・ド・シュイフだけで、ほかの人間の頭にあるのは自分のことだけだ』と言い切ったことでした。
避難のための馬車に乗り合わせたメンツの中には修道女と革命家が居たのに何故だろうと。
ブール・ド・シュイフは馬車に乗り合わせた面々に食料を分けているのに彼女が困った時に何故誰も助けなかったのかと非常にモヤモヤしたものです。
あと、『脂肪のかたまり』という邦題だと女性を物質的というか嫌味な感じに聞こえるのに、フランス語だと美味しそうなお菓子の名前に聞こえてきますね不思議なことに(きっと、ブール・ド・ネージュの影響かもしれませんが)

本編を読んでから抱いた感想は、有事の時にあらわれる本性は人間性の根を見た気持ちになるという事でした。エリザベート自身、感情が豊かなので時には気性が激しくなり言葉遣いが下品になったりするが穏やかな時は親切であったり。コルニュデは革命家としての情熱はあるが、世渡り上手で調子がいいような振る舞いをする(これはロワゾーにも言えますが)。革命家としての自分に心酔しており、時折見せる差別的な発言は有産階級の出から抜けきっていないなと思いました。エリザベートと同衾できていたら態度は変わったのかな?
修道女はただ祈っているだけで我関せずというのは意外でした。修道女の奉仕活動のイメージを持っただけに(物語の後半で修道女の正体がわかって納得しましたが)伯爵やブルジョワの方の態度はいわずもがなですね。登場人物みんなのプロフィール作って読書会で話したら盛り上がりそうですね。
短くてシンプルな話でしたが物語序盤の戦争シーンの文章表現がリアルで重苦しく感じてしまい30ページになるまでは読んでいて辛かったです。
物語全体から作者の戦争は嫌だという気持ちが滲み出てたのを感じました。
どんなに時代が流れても人間の嫌なところは変わっていないんだなぁとガッカリしましたが後世にも読み継がれて欲しい作品であることには間違いないです。

 

・本のおまけに書かれていたモーパッサンの生い立ちを読んで、成程と。 物語で修道女が出てきたのが何故だろうと考えていたのですが、『13歳のときイヴドーの神学校に入学』、『18歳で退学』と書かれていたので、身近な場所で修道女やキリスト教と触れることがあったからなのかなと。
(他にもモーパッサンの母親が紡績工場の娘で、物語に紡績工場の経営者が出てたり…) 修道女の出番こそ少なかったのですが、出てきた二人の修道女のうちの老尼の方はキーパーソンでした。出番や発言が少なかったからこそ、老尼の言葉は際立ち、説得力を増し、中でも「それ自体は非難されるべき行いでも、行為のもとになった考えによって、しばしば価値のあるものとなるのです」という言葉は、まるでブールド・シュイフに神託を代弁しているかのように思わせています。 娼婦だと蔑まれても、教会の洗礼式に感動するような心を持ったブール・ド・シュイフは、その信仰心につけこまれ、最後は老尼の言葉が決め手となり、プロシャ士官のもとに行ってしまいました。そのような信仰の中に潜む「都合のよさ」に、モーパッサンは疑問を抱いていたのかもしれません。
また、この話はブール・ド・シュイフの喪失の物語に感じました。 ブール・ド・シュイフは娼婦として生きていた以上、貞操の喪失はあったかもしれませんが、何と言われようが「プロシャへの反抗心」だけは強く守っていました。その反抗心はブール・ド・シュイフの心の拠り所、信仰に思えました。 そのブール・ド・シュイフがプロシャ士官に身を遊ばれることにより、「プロシャへの反抗心」をも喪失させられました。 ブール・ド・シュイフ以外の登場人物たちは、人殺しはしなかったとは言え、ブール・ド・シュイフの心を殺しました。

[登場人物について]

ブール・ド・シェイフ以外の登場人物についてはこちら

・協和主義者のコルニュデは、登場人物の中での位置づけが微妙。コルニュデが飲食する場面をよく読むと、馬車に同乗した他の乗客とは異なった存在、孤立した存在として描かれている。(p30 3行)

コルニュデがビールを飲む場面は何か所も描かれていたが、果たして本当の協和主義者であるのか、真の愛国主義者としていかがなものか、と疑問に感じてしまった。ビールへの情熱が、革命と同様になっており、他方を変えることなしには一方を味わうことができない。すなわち革命はビールを飲むことと同程度の意味の位置づけになっていると感じる(p46 9行~p47 3行)。また、宿屋に足止めされる理由をプロシア士官に問い質しに行こうと、伯爵や県会議員、ブルジョアから誘われるも、コルニュデはプロシア人とは一切関りを持ちたくないと言い放って、ビールを飲みながら暖炉の前に戻ってしまう。最初は愛国心の現れかと思ったが、我関せずとビールを飲んでいるのは、実はトラブルを恐れて逃げているのではないか(p59 5行~8行)。

元々コルニュデが馬車に乗ってル・アーブルに行こうとしていた経緯として、戦闘準備だけで満足し、敵が近づくと見るや逃げる様子が描かれている(p24 12行~p25 1行)。さらには卑怯さが表れている箇所がいくつもある。娼婦が犠牲になることに同情しているようにも読めるが、全く行動が伴っていない。馬車に同乗した他の客が、娼婦を落とし入れる計画を決めている中、コルニュデは関わりがないような顔をして、脇から見ているだけであった。(P72  14行~15行)娼婦に警告するわけでもなく、計画を潰そうとするわけでもないにも関わらず、計画が実行されてから怒りを示している(P84  11行~13行)。そもそも、プロシア士官が娼婦に肉体の提供を求めていると知った時、コルニュデは憤慨し、ビールジョッキをテーブルの上に乱暴に置いて割った(P63  10行~)が、プロシア士官本人や伯爵、県会議員、ブルジョアに対して怒りのジョッキを向けることはなかった。このように、いくつかの箇所で、コルニュデの行動力の無さが示されており、共和主義者としては疑問に感じた。
そのほか、修道女の行動についても、完全に悪とは言えないものの、キリスト教の負の側面を担っており、皮肉な結果となった。

 

・権力を利用して婦人との関係を迫る兵士が最も悪だし、登場人物達はお金を持ってる人達なのですから、兵士に賄賂を渡してやり過ごすなどの道もあったのではないかとも思います。

 

[その他]

・この戦争は軍事的才能が皆無なナポレオン三世が生虜となり、フランス皇帝がいきなり皇帝を損切りして第二帝政が幕を引くという形で決着がつきます。この後ずるずるとフランス人が帝政維持に固執したら、ビスマルクによるドイツ第二帝国にじわじわとなぶり殺しになるところを好判断で回避できた戦争とも言えます。吉田茂が言う、戦争に負けても外交に勝つという典型でありましてビスマルクとしては臍(ほぞ)を嚙む結果となりました。なので、解説に書かれているほどの圧倒的フランス劣位というのは違うのではないか。

 

・ジャック・アタリは経済学者で、フランスを代表する世界最高レベルの知性と云われている。そのジャック・アタリが「利他主義とは合理的利己主義のことである」と云っていた。日本語で言うと、”情けは人のためならず”かもしれない。『脂肪のかたまり』ではブール・ド・シェイフ(この名前が「脂肪のかたまり」)という主人公らしき女性に向かって、ほかの同行者9名が取る態度と言動が描かれている。それらは例外なく利己主義のものであった。ではブール・ド・シェイフは逆に利他主義者であったと云えようか。他の同行者のために、持参した食料を分け与え、プロシア士官に身を任せた。挙句、皆から利用価値はなくなった冷酷に扱われたのである。他人のために善きことをして、そのお礼に、私も他者から善きことをしてもらえる。これがジャック・アタリのいう利他主義=合理的利己主義である。ブール・ド・シェイフにはどうしてそのようなことが起きなかったのか。私の仮説は「平時と有事とでは、これら善行の相互影響メカニズムは異なる」というもの。私の暫定結論は”有事では、情けは人のために終わってしまうと思うと良い”である。これは、モーパッサンが身をもって知った”人間への絶望”の、ある一つの見方ではないかと思う。

 

以上、参加予定の方から聞いた課題本「脂肪の塊」を読了して感じたこと・印象や思いなどをご紹介しました。

一人ひとりの意見が自分では気付かなかった視点や考えに気付かせてくれます。

あなたの読書を更に豊かにするきっかけとなりましたら幸いです。

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