武者小路実篤の友情に込められた思い
高志の国文学館にて[読書会blue]第14回「友情」開催しました。
武者小路実篤が志賀直哉の友情からヒントを得て創作した作品です。

読書会blueでは感想を話し合う前に主催者から課題本に関する小話をしています。
・武者小路実篤と志賀直哉との友情
・「友情」に込められた思い
について話させていただきました。
・武者小路実篤と志賀直哉との友情
ここで武者小路実篤について触れておきましょう。
武者小路実篤(1885~1976)東京都出身
学習院から東京帝国大学文科社会科に進学するが1年で退学。
明治明治41年に自費作品集「荒野」を出版。明治43年に志賀直哉、里見弴(さとみとん)、柳宗悦(やなぎむねよし)らと創刊した雑誌「白樺」思想的なリーダーとして活躍。以後60年余り小説のほか戯曲・詩・随筆など6300篇を上回る作品を精力的に執筆した。また、叔父が住んでいた三浦半島(神奈川県)で半農生活を営んだことも「※新しき村」創設につながっている。
※新しき村とは…生活していくのに必要なだけの仕事は行い、ほかの時間は芸術活動など自分たちのやりたい仕事をする生活。当時は身分の差が大きく広がっており、こうしたことに不平等を感じている人たち、特に若者の間で「新しき村」の個性を大切にして「人間らしく生きる」という考え方は強く支持された。
志賀直哉とは学習院時代に知り合い、生涯を通して交遊がありました。
志賀直哉と親しくなったことも武者小路実篤が文学を志すきっかけとなっています。
課題本「友情」はそんな二人の友情がモデルとなっています。
野島→武者小路実篤
大宮→志賀直哉
実際に二人で鎌倉を訪れるようなことはありませんでしたが、武者小路実篤自身は幼少期の夏に鎌倉を訪れており、それが作品に登場するきっかけとなったようです。
なお杉子のモデルはおらず、実篤の若き日の片想いの女性をヒントに虚構されています。実際に女性を巡った言い合いなどもしていませんのでご安心くださいね。
志賀直哉については過去の読書会でも取り上げています。
・友情に込められた思い
「友情」が出版された当時(大正9年)は新しき村を創して2年目であり、内紛などさまざまな現実との闘いのなかで村の若者を力づけるために書いた作品です。
序文には著者の恋愛についてのメッセージが込められています。
・初版の序文
「人間にとって結婚は大事なことにちがいない。しかし唯一のことではない。…しかし恋にもいろいろある。…(中略)…失恋するのも万歳、結婚するのも万歳」
こちらの序文は新潮文庫版にも掲載されています。
再販に際しての序文には実篤のこんな言葉が残されています。
・再販に際しての序文
「この小説は実は新しき村の若い人たちが今後、結婚したり失恋したりすると思うので両方を祝したく、又力を与えたく思って書き出したのだが、かいたら、こんなものになった。…(中略)…しかしどっちにころんでも自己の力だけのものを獲得して起き上がるものは起き上がると思う」
武者小路実篤は「個性を大切にして人間らしく生きる」ことを大切にしていました。
「友情」には新しき村の若者を力づけようとする現実的な目的があり、彼の恋愛についてのメッセージがこの小説を明るく、前向きなものにし、多くの読者を生むきっかけとなったのでしょうね。
野島と大宮が最後まで互いの価値を認めあい、人格を尊重しあう結末にも実篤の主張がうかがえます。
なお「友情」執筆当時の実篤は小説家としてのキャリアは10年ほどとなっていましたが、それまで主人公と自分自身をうまく切り離して書くことができませんでした。
このことは実篤の課題となっていたようです。
実篤自身も読者も満足のいくフィクションが「友情」であったことも実篤のキャリアの飛躍に繋がっているのでしょうね。
以上、読書会で話した小話をまとめさせていただきました。
あなたの読書をさらに豊かにするきっかけとなりましたら幸いです。
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