小話:【イワン・デニーソヴィチの一日】ソルジェニーツィンとラーゲリ

令和2年10月25日(日曜日)9:30~高志の国文学館研修室103にて[読書会blue]第23回「イワン・デニーソヴィチの一日」開催しました。

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読書会blueでは課題本に関する小話をしています。

今回は

・ソルジェニーツィンについて

・ラーゲリ(強制収容所)について

話させていただきました。順にご紹介します。

 

・ソルジェニーツィンについて
ソルジェニーツィン(1918~2008)
大学で数学の博士号を取得後、モスクワ大学の通信教育で文学を学ぶ。ソビエト連邦が第二次世界大戦に参戦すると招集され、戦功により勲章を授けられたが、終戦直前に手紙でスターリンを批判した疑いで告発され、約10年間強制収容所へ送られます。

1956年に釈放され、翌年に名誉回復。1962年反ソ連雑誌に掲載された「イワン・デニーソヴィチの一日」で一躍文名を高めた。

 

1970年ノーベル文学賞受賞。

 

ラーゲリに焦点を当てた、反体制的な作品を多く発表したことから著作をロシア国内で出版できなくなり(当時は検閲をパスしないと出版できず原稿のコピーが秘密裡に警察の手に渡ったり、外国に流れ出て無断出版されることもあった)、1974年国外追放。

その後国内での作品出版が解禁され、1990年市民権を回復。1994年5月に20年ぶりにロシアへの帰還を果たしています。

 

イワン・デニーソヴィチの一日の着想は1950年代に石炭の採掘のためカザフスタン:エキバストスの強制収容所に収容されていたときにソ連全土の何百万人の囚人の恐るべき実態を明らかにしたかったことから。

 

収容所内ではメモなどを取ることができなかったため、頭の中で一作ずつ完成しながら暗記し、反復するという方法で覚えていた、と自伝で明らかにしています。

 

強制収容所に収容された人々の多くが無実の罪をきせられ、きわめて粗暴な裁判手続きを強制的に通過させられ、終わることのない刑期を言い渡されていたのです。

 

・ラーゲリ(強制収容所)について
ラーゲリとは…強制収容所のこと。(ほか類語でグラグ・グラーグなど)

ロシア革命直後(1917年頃)~ソ連崩壊直前(1986年頃)まで多数存在。レーニンが反政府派の収容のために発明し、スターリンが大いに利用した。

反政府派とみなされた政治犯、第二次世界大戦時の戦争捕虜(日本人含む)、敵対的とされた民族(ラトビア、モルダビア、ドイツ、ユダヤ、テュルク系民族など)や敵階級(クラーク(自営農家)、資本家、貴族など)に属する人々などを収容し、強制労働させた。

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↑実際の作業の様子。舞鶴引揚記念館HPより

収容所は1920年代から第二次世界大戦をはさんで1940年代まで拡大し続け、1950年代には最大規模に達する。収容所は全国で500か所近く存在し、収容者は数百人~数千人、全労働人口の1割以上を占めたと言われる。

1953年スターリン死去後は規模を縮小、1986年ゴルバチョフの指令により廃止された。

 

実はけっこう最近まであったという事実に驚きです。

 

-40℃という厳しい気候と生活条件に加え厳しい作業ノルマ、栄養状態の乏しい食事、感染症の蔓延などで強制収容所では多くの人が亡くなっています。

特に第二次大戦直後はロシア国内でも人手・食糧・物資が不足していたことから強制収容所の労働力を大いに利用しており、特に1945~1946年には多数の死者が出ています。
下記の表には-40℃はどういう世界かがわかりやすく書かれています。

どれくらい寒いのか温度の説明
↑舞鶴引揚記念館HPより。

日本人の戦争捕虜(シベリア抑留者)の人達も多く、ラーゲリの労働要因として過酷な環境下のなか、働かされていました。戦争が終わったにもかかわらず、母国に帰れず命を落とした人がたくさんいたことを忘れてはいけませんね。

 

以上、読書会でお話した小話を紹介させていただきました。
本を読むことに加え、時代背景や著者についてなどを知ることで本の世界をより具体的に知ることができ、視野を広げることができます。

あなたの読書をさらに豊かにするきっかけとなりましたら幸いです。

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