小話:新田次郎と剱岳・点の記
令和2年1月4日(土曜日)9:30~
高志の国文学館にて読書会blue第20回「剱岳 点の記」開催しました。
富山ゆかりの課題本であったこと、実際に剱岳へ登頂した参加者の経験談も加わったことから非常に盛り上がった時間となりました。
読書会blueでは毎回、主催者より課題本に関する小話を紹介しています。
今回は課題本「劔岳 点の記」より
①新田次郎について
・作家としてのキャリアは教科書の執筆から
・「強力伝」
②剱岳について
・立山信仰と剱岳
紹介しました。
当時の立山信仰についても併せて紹介します。

①新田次郎について
長野県(現在の諏訪市)出身。本名:藤原寛人。
妻:藤原てい(作家)、次男:藤原正彦(数学者・エッセイスト)として活躍。
新田次郎というペンネームは出生地の角間新田(かくましんでん)を読み替えたところからきています。
無線電信講習所(現在の電気通信大学)卒業後、中央気象庁(現在の気象庁)へ入庁し、富士山測量所(観測所・測候所ともいう)勤務等を経験。富士山気象レーダー建設にも責任者として関わっています。
非常にリアルな筆致で人間の本質を深く掘り下げた作品を多く残しており、作品のモデルとなった人物や場所などの現地取材を欠かさず行う緻密な仕事ぶりでした。
・作家としてのキャリアは教科書の執筆から
1943年に満州へ赴任後、1945年に新京にてソ連軍の捕虜となり1年の抑留生活を経て一
気象台に復帰するも薄給のため一家を養うことができず、アルバイトとして理科の教科書の執筆(気象関係)をはじめたことが作家としてのスタートでした。
(ちなみに上記の引き揚げ体験を妻:藤原ていが「流れる星は生きている」として書き上げています)
1956年に「強力伝」で直木賞受賞。
1966年に依願退職するまで作家と会社員を両立させました。
その後も多くの時代小説・山岳小説を発表。1980年、心筋梗塞のため死去しています。
・「強力伝」
強力伝は新田次郎の名前を世に広めるきっかけとなった作品であるとともに、山岳小説を書くきっかけをくれた作品でもあります。
強力伝の主人公:小宮正作のモデルとなった小見山正の存在です。
小見山正は富士山などで強力として、活躍していました。
若かりし頃の新田次郎とも面識があり、義理人情の厚い人物で周囲から非常に親しまれていました。(当時から力持ちで新田次郎曰く70kg程の荷物も持ち上げることができた人物だそうです)
ある日、新聞社が懸賞金を用意してまで募集した企画がありました。
それは白馬岳山頂(標高:2.933m)まで歩いて花崗岩と風景指示盤を人力で運ぶ仕事。
重さは胴石50貫=225kg(実際に運んだ石の重さには諸説あり)
…今なら間違いなくヘリで運ぶやつです。
これを小見山正は2回に分けて人力で山頂まで担いで登り、企画内容を達成しました。1941年(昭和16年)のことです。
しかし登頂後、このことがきっかけで小宮山正は病気を患い死去しています。
新田次郎が小見山正が亡くなったことを知ったのは戦後日本に帰国し、復職してから。
知らせを聞いた新田次郎は小見山正の家を訪ね、直接家族から話を聞きに訪れました。
その際に見た本人の手記が「強力伝」を書くきっかけとなりました。
詳細については新田次郎著「小説に書けなかった自伝」に掲載されていますのでそちらもご覧ください。
②剱岳について
剱岳は標高:飛騨山脈(北アルプス)北部の立山連峰にある標高2.999mの山。富山県の上市町・立山町にまたがっています。
日本百名山および新日本百名山に選定。日本では数少ない氷河の現存する山であり、夏でも雪が残っています。道中にあるカニのタテバイ・カニのヨコバイといわれるほぼ垂直に近いような角度の岩壁が有名です。
遭難・滑落など山岳事故の多い山であり、日本では数少ない山岳警備隊が常駐している山でもあります。
当時の計測機器・運搬方法等については(社)日本測量協会HPより引用させていただきました。映画「剱岳 点の記」では当時の計測の様子や服装などが再現されていますのでそちらも参考にしてください。
柴崎測量隊は登頂には成功しましたが、山頂に機材を運ぶことが困難であったため、山頂に三角点を設置できませんでした。そのため、やむなく近くの山からの観測を行い剱岳は標高:2.998mとしました。
その後、年月を経て地上写真・航空写真の観測から2.998m~3.003mを行ったり来たりしており正確な標高がはっきりしたのは2004年。
剱岳山頂に三角点を設置し、計測したところ標高:2.999mと分かったため、
今日では上記の標高が多くの地図等に利用されています。
いまほど機材も装備もなかった時代に、誤差の少ない測量を成し遂げたのは凄いことですよね。
なお当日の読書会では剱岳登頂後に富山日報記者がまとめた新聞記事も紹介しました。
・剱岳と立山信仰
立山(雄山)は古くから霊場として有名な場所として、平安時代から亡くなった親しい人に会える山として都の貴族を中心に日本中の人々に知られていました。
鎌倉時代には既に地獄の山・針の山・剣の山と見立てられており、人は登らないけれど立山信仰には大切な山として位置づけられていました。
立山(雄山)山頂には雄山神社の社殿があります。
剣岳を背にして建っているため、必然と剣岳を拝む形となっているのも当時の信心深さを感じます。
ちなみに作中に登場する立山曼荼羅は越中富山の山岳信仰はどのようなものか教導するために立山山麓の宗徒たちが使っていた作品です。(芦峅寺系・岩峅寺系などさまざまな種類があります)
映画のなかでも当時の絵解きの様子が再現されていますので参考にしてください。
読書会のなかでは富山県立図書館古絵図・貴重書ギャラリーより「越中立山開山縁起曼荼羅図」を紹介しました。

以上、小話:新田次郎と剱岳・点の記についてご紹介しました。
今回の課題本「剱岳 点の記」は著者のことから始まり、執筆のきっかけ、「強力伝」について、剱岳の概要、山岳信仰に至るまで盛りだくさんの内容の小話となりました。
あなたの読書をさらに豊かにするきっかけとなりましたら幸いです。
参考文献