小話:浦安と山本周五郎

2019年10月14日(月曜日)9:30〜
高志の国文学館にて[読書会blue]第19回「青べか物語」開催しました。

課題本は山本周五郎の「青べか物語」

山本周五郎の若かりし頃、浦安に滞在していたときに書き溜めていたノート、当時住民から見聞きした噂話などを基に書き上げた1冊となっています。

 

読書会blueでは参加者と話し合う前に毎回課題本に関する時代背景などを紹介しています。

今回は

・昭和初期の浦安の風景
・浦安時代の山本周五郎について

について話しさせていただきました。
順にご紹介します。

 

 

・昭和初期の浦安の風景

浦安はいまでこそ某夢の国があることで有名ですが、元々は小さな漁村。

明治22年、町村制の施行に伴い堀江、猫実、当代島の3村が合併して「浦安村」が誕生しました。

「浦安」という地名は当時漁村であった当地の漁浦の安泰を祈願する意味をこめられています。一説には日本国は昔「浦安の国」と称したことから、この名を採用したともいわれているようです。

 

当時、三方を海と河川に囲まれた浦安は陸の孤島。
東京までの交通手段は「蒸気船」
浦安-高橋(江東区)間を約1時間半で結んでいました。

 

昭和初期の浦安の産業は、のりの養殖やアサリ漁など水産業中心に栄え、境川や船圦川には「べか舟」がひしめき合い、漁師町として発展しました。

 

ちなみに「べか舟」とは、東京湾でのりを採る際に使われた木造船のことを言い、板が薄くべこべこすることが名前の由来となっています。

 

昭和初期の浦安の風景は浦安市郷土資料館のHP写真を中心に説明しました。浦安市郷土資料館HP、浦安市HPに浦安の由来や当時の建物の写真等が掲載されていますので興味のある方は見てみてください。

 

青べか物語当時の浦安の風景が再現されているので、実際のイメージが湧きやすいと思います。

・浦安時代の山本周五郎について

関東大震災で勤めていた質屋が罹災、いっとき関西で働いていたが東京に戻り、雑誌編集の仕事をしていた山本周五郎。

 

「東京から友人とスケッチに来て浦安の風景が気に入ったから」という理由で千葉・浦安に移り住み、何度か浦安市内を転居しながら昭和3年8月~昭和4年9月ごろまで過ごしました(実際は浦安に知人がいたから、という説もあり)。

 

その後東京に転居。昭和5年ごろから経済的に自立することができるようになり、その年の暮れに最初の結婚をしています。

 

貧困、失業、孤独、失恋など浦安時代の周五郎の生活は苦難に満ちていました。

 

当時の山本周五郎は文学青年、人生における大事は文学しかありません。昭和3年10月には勤務不良により解雇。知人たちが仕事をくれ、原稿料を手にすることもあったがそれだけでは足りず、町の人たちの代書をしたり、質屋に生活の援助をしてもらったり、父親や知人から借金をしてしのがなければならないほどの窮状でした。

 

没後に発表された「青べか日記」には浦安時代の苦闘の様子が詳細につづられています。(青べか日記は青空文庫で公開されていますのでよろしければどうぞ)

周五郎が自ら町民たちとの間に距離を置いていたのは確かでしょうが、かといって町と町民たちを忌避していたわけではありません。

 

周五郎は青べか物語出版以前にも浦安の生活をもとにした短編を発表しており「青べか物語」についても「これだけは自分としてどうしても書いておかねばならないものだと思っている。自費出版でもいいから完成させたい」と周囲に語っていたといいます。

 

それだけ思い入れのある作品なのでしょう。

 

しかしながら浦安での苦闘体験を小説という形に醸成するのには数十年という年月が必要でした。(連載されたのは周五郎58歳のとき)

と、同時に当時の自分の貧窮生活に距離を置いて見られるようになるのにもそれだけの年月が必要だったと考えられます。

以上、先日の読書会blue第19回「青べか物語」で話した内容をご紹介しました。

1冊の本ができるまでには著者の思いや環境、時代背景などさまざまなものが関わっています。

小話を通してあなたの読書をさらに豊かにできたら幸いです。

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